昭和五十四年一月二十四日 朝の御理解
御理解第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある」
今日私、教典をひらかせて頂きましたら、この御理解七節と御理解八節の、その中を頂きましたんです。一昨日だったでしょうか。どなたかお知らせを頂かれて、七よりも六がよい。というお知らせを頂いておられたんですね。どなたか。七という字は、こう書いて曲がっておるでしょうが。ね。六ということは、これは、ま、ここでは徳と申しますからね。
信心はしよっても、途中からくるっと曲がったんじゃいかん。ね。じゃなくて、その次の今日、私は七と八の会中という事は例えば、私共の信心のない時、または薄い者は結局、おかげの方にばかり走って、ここからくりっと曲がって徳にならないという、だから御理解八節を。八節というのは、広がりに広がっていくおかげ。とこういう。そういうおかげを、ま、神様は今日は言っておって下さるにではなかろうかと、ま思いました。だから今日は、内容もですけれども、六、七、八というような意味でね。七よりも六、六が方がよい。一つ少ないようだけれども六の方がよい。ね。
目先は何かこう苦労苦心のようなだけども、徳を受けて先々八の字になっていくおかげを頂いたがよい。という事なんですね。例えば、この六節の中にありますように、神の実感というものがね。神様の御守護を受けておるという実感が、例え畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうがという事は、どういう極楽な思いをいておる時であろうが、どういう地獄のこれが真ん中だろうがという思うような苦しい中にあってもですね、いわゆる、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。神の御守護の中にあっての事だという事になるわけ。ね。昨夜の御理解を、に、ヒントを頂くとどういう事になるかというと、今が地獄の真ん中だろうがというような中にあっても、神様がこのようにして力をつけて下さる。この地獄の釜を踏み抜いた向こうに極楽ありと確信しての信心。ね。
だから「幸」という字は上から読んでも幸、下から読んでも幸。どんな場合であっても、幸が感じれれるようなおかげを頂くということが信心だという事。ね。それには、信心の焦点というものが御理解七ですね。天地日の心になること肝要ということになってくるのです。それには、なら、御理解八である。いうならば、親の心がわからなきゃいけない。親の思いというものはね、それこそ神様は、無信心者ほど可愛い。親は、自分の子の中に屑の子があれば、その屑の子が可愛いようなものじゃとおっしゃるような。ね。そういう親の情念というようなものが、私共の心に伝わってくる。私が苦しんでおるけれども、親は私よりも苦しんでおられるんだと思う時に、神様すみません。ありがとうございます。になってくるわけ。ね。 昨日お月次祭の前講に、中村先生が前講を勤めておりました。
おばあちゃんの乳癌という、も、医者にも見放されたような病気。とうとう医者を逃げ出て。帰って来た。それから、お母さんが一生懸命になった。当時の椛目に一生懸命にお参りをした。ね。おかげで全快のおかげを頂いてね、九十歳。いくつまでも長生きのおかげを頂いた。ね。いうならばおばあちゃんの、死ぬか生きるかの難儀が母の信心になり、その信心が私共に伝わり、そしてお道の教師にまでお取り立て頂いた。ね。
私は昨日、午後の奉仕の時に、このお届帖のことを『哀楽帖』と頂いた。哀というのは悲しいという字ですね。楽は合楽の楽。これをね、合楽帖にするとおっしゃった。それは合楽教の合楽。
確かに、本当にもう、おかげを頂いて有難い、勿体ないというおかげばっかりじゃないのである。本当に話を聞いておっても、もらい泣きするような悲しいお届けも、日にはいくつかある。ね。けれども、その訳をようくわからせるとです、成程、私大人が貧乏クジ、私大人が、この世で一番の難儀な者のように思うておったけれども、御理解を頂き、教えを頂かせて頂くと、神様がこのようにして信心をお育て下さってあることがわかると。痛うございます、悲しうございます。けれども、ありがとうございますという事になる。ね。そこにはじめて、いわゆる哀楽帖が合楽。いうならば、神様と通う。ね。神様と御礼が言いあえる、喜びあえれる合楽帖という事になるんだという、昨日のお月次祭の御理解でした。ね。
それには御理解八節、それこそ親の心がわからなければ、そういう心は起こってこない。だからお互い、信心させて頂く者はどういうような場合であっても、ありがたいと信心させて頂く者の幸をわからせて頂くような、おかげを頂かなければなりません。それにはギリギリ、ね。根本的なところ。結局、合楽理念のマスタ-するということなんですけれども、例えば、皆さんが今、六・七・八という事を聞かせて頂いて、成程だと合点がいかれるのだとこう思うのです。だから、私共もどうぞ一つ、どんな場合であっても、お礼の言えれる心の状態を聞かせて頂く。そういう稽古をさせて頂こうという事になるね。そこで、んなら、どこに焦点を置くか。そりゃもう、合楽理念をマスタ-する以外にない。成程、合楽理念をマスタ-する以外ないけれども、なら皆さんが、そこをどう、んなら答え、どうそれを行じて行かれるかということでございます。どうでしょう、一寸考えてみて下さい。まあ先生が言う通りなんだと。そのためには、どういうふうに日々の信心生活を改めて行き、またそこに焦点をおいて稽古したらいいかという事になるのです。
昨日は、竹中工務店ですかね。あちらが見えて説明会がありましたから、その委員の方達が集まって、その説明会を聞かせて頂いた。その事を私、神様にお届けさしてもらいよりましたら『せの方が、おたい子を結ぶでしょ。帯を。それに簡単に後ろの方で結んだつばちょいとひっかけるとがあるでしょうが。あれは何ち言うですか。簡単帯ち言うですかね。便利帯ち言うでしょ。あのちょっと後ろへひっかけた所を頂くです』しっかり信心の帯をせよとおっしゃるが、これではしっかり信心の帯をしとらん。いかに竹中組の説明を聞いて、どうこうと。例えば言うておってもです。ね。問題は、もうこれは、教会で行われる事は、何を言うても信心が根本なんです。勿論、私の信心が根本。または、皆さんの信心が根本。そういう意味あいで、御造営の前にはまず、信心の御造営をとこう言われるわけです。そういう大きな、例えば願いを立てさせて頂くのですから、とてもそこに。そのためには、この位な修行はあたり前。ちいう位な修行を、お互いがさせて頂く気にならねばいけない。そういう気がないという事でしょうね。それでも神様は、ま、おたいこを結んどると神様は受けて下さるでしょうけれども、実際は、ちょっとひっかけたばっかりの帯であり、信心の帯がしっかりしまってない。そこで私共としては、あ、ほんにそうだ。本気でこういう大きな願いはしておるのだから、一修行させてもらわにゃというようなものが、自ずと生まれてこなければ嘘じゃないかとこう思う。
そんな事で昨日は、秋山先生朝から来とりました。朝のお食事の時に、今度信徒会でこういうものを作りましたちこう。筑水信徒会報告書と。五十四年度のね。こんなに厚い。まあ、一年中の計画の事が書いてある。秋山先生の権限らしいんです。ですから、これを作って、今度はもう、いよいよその、合楽調で行きたいと思うと。
それで、ここに書かせて頂きましたが、先日も教務所長に見せて頂きましたら、あ、これはなかなかよう出けとるのと言うて、その、どうか非難めいたことを言われるかと思ったら、大変ま、喜ばれたという話しを聞きました。そして、これを見せて頂いてです、成程これならば文句は言うまい。もう金光教で一番欠けてるのは今これなんだと。も、いろんな会合の時に、とにかく信心の立場を。ね。御取次成就信心生活運動に参加して、とにかく日参をしよう、教えを頂こう、しっかり御用をさせて頂こう。今年の信心目標はこの日参から始めようといったような事は、もう百年間言う続けて来たことです。そして、なら、実が上がってないわけ。ね。そりゃ本気でなら、日参をというような人達はあっただろうけれどもです、何とはなしに、ね。いうならば、くだけてしまう。焦点が。いうならば、間違っておるからではなかろうかと。
私は今日、この六・七・八の御理解をなら、天地日の心になること肝要だといったような事を、このように具体的に、このように合楽理念が一口で言えれる位にならないけんと、あらためて信徒会長の敬服いたしました。それを皆さんが、いっつも、なら聞いておる事ばっかりなんですけれども、になさんに、なら合楽理念のどこを焦点において、どう話し、どうまとめて、どう書くかといったら、なかなか書ける人はばさらかおるまいと思う。一寸少しばかりですから読んでみましょうかね。「これは、さ、読めるかな。誰か目の良か人が読んでくれんの。文男さん」「筑水信徒大会五十四年度信心日課。」天地金乃神様はどういう神様なのか。どういう働きをして下さるのか。和賀心であらねばならない原理は何故か。おかげは和賀心にあるのか。その手立ての根本は、天地金乃神様は神様であり、親の感情をこめて、氏子可愛いの一念のみの神様である。天地金乃神様の働きは、例えいく憶念かかろうと、一切を丸うせずにはおかん働きしかない。和賀心にこそ生神の心であり、丸うなろうとする心であるから、天地の丸せずにはおかん働きを共に出会う心である。柿の種には、すでに柿の芽があるように、人間は生まれながらに生神の性を持っている。柿の種にも、土のぬくもりなしには育くまないように、人間生神の性も、土の心で育たねば現れ出ることがない。和賀心への手立ては、限りなく美しい天の心。黙って受けぬく地の心の精進である。
今、言われた通りの事ですけれども。私は昨日、秋山先生と話しました。これが今年の、筑水信徒会の信心の目標であるとするならば、これはもう、一年間この事を研修してもまあだつきぬほどです。もう合楽の話しをしとったら、この事ばっかりなんです。それをなら、これだけの活字にまちめるという事がね。だから、これならば合楽という言葉もつかってないしね。全教の人達に浸透していく事だろう。また、浸透していくならば、金光教がまた変わるだろうね。天地金乃神様はどういう神様なのかと。どういう働きをして下さるのかね。和賀心であらねばならない原理は?と。何故おかげは和賀心にあるのか。その手立ての根本はと言ってるわけですね。その手立ての根本が、今ず-っと読まれた。いうなら、いつも頂くように、柿の種には、もうすでに柿の芽があり、人間の心の中には、生神の芽がある。というふうに説いているわけですね。だから、いわゆる今日の御理解七節であり、天地日心になること肝要だと。例えば言うてもおります。知ってもおりますけれども、なら天地日月の心をこの位に、いうならば、わからして頂いたら、それからのいうなら、土の信心はもう限りがないわけ。これを焦点にするならば、日参もしなきゃおれなくなってくるしね、御用もしなければおれなくなってくるし。いわゆる教団で求めておる総ての事がです、この中に入ってくるわけです。はあ、今年の信心目標は、御用だということばっかり言うてもです、ね。ただ、その目標で、んなら、いくら日参してもおかげにはならんね。例えばその、んなら、目的でいかに御用しても、大したおかげにはならん。この根本の所をふんまえての、いわば日参であり、御用でなからなければならないという事でございます。ね。
今日、お互い六節の中から、ね、それこそ神の実感。それは、どういう中にあってもありがたい。ね。いうならば、天地の親神様という方は、どういうお方かという事をわかれば。とこう言ってますですね。なぜ和賀心にならなければならないかと。というその原理はどこにあるのか。とね。そこで、なら和賀心になる事の為には、いよいよ土の心、水の心というような精進が必要だと、ま、言うなるわけです。だから、そこに焦点を置いて、金光教信奉者の全部が精進するならばです、ね。いよいよ金光教は、生々としたおかげになってくるでしょう。ただ日参をすすめたり、そして日参をして教えを頂くと言うてもです、ね。
昨日、私が頂いたことの中に『盲が盲の手を引いてどくへ行くのか』というような意味の事を頂いたですね。いうならば、いきなり三八のお話を聞いてですね、自分自身が、助かっておらん者が、助かっとらん者を導いて行くのですから、危ない危ない。
教えの、いうならば芯どころというものを、つかまんなりに教えを頂くという事は、かえって危険です。というようなことにすら、ま、なりかねないわけです。ね。
皆さん、今これを読ませて頂いた。これは今度、田主丸の信徒会は何日ですかね、二十七日ですか。二十七日だそうですが、その会に出た人に全部、これを一冊つづあげる事になっとるそうです。
ですから、この事は一つ、ま、合楽理念とはと言うたら、せめてこの位な事は言わなければいけないね、この一番初めの、天地金乃神様のといったようなとこから、和賀心でならなければ、助かる事の出来ない原理といったようなものをですね、私共がふんまえて、いうなら今日の六・七・八の御理解を、一遍頂き直して下さったら有難いと思う。
どうぞ